嗚咽
科学紀元11年4月30日(土)
東日本大災害の日の朝、まだ日本列島が大きく揺れていなかった時に、米国から、Walter M. Fitchさんが亡くなられたという連絡が届きました。Walter M. Fitchさんと根井正利さんがはじめた学術雑誌、Molecular Biology and Evolutionの第2代の編集長だったBarry Hallさんからのメールで知りました。その後、同日の夜、大震災が起こった後でしたが、現在Molecular Biology and Evolutionの編集長をしているMarcy Uyenoyamaさんからも、私たちAssociate Editorsに彼の死の連絡が届きました。昨年から、Walter M. Fitchさんの状態が思わしくないことは聞いていましたので、暗い気持ちにはなりましたが、受け入れました。その後は、大災害が起こって、そちらのほうに気をとられていました。
4月にはいり、私の研究室の人達に、現在準備を進めているSMBE2011 Kyoto Conferenceの状況を説明したときに、Walter M. Fitch Student Prizeに応募するように話しました。その時に、The Walter M. Fitch Awardのページをスライドで投影しました。そこに掲載されているFitchさんの笑顔を見たとたんに、嗚咽してしまいました。1984年に、ヒューストンから車で北上し,当時ウィスコンシン大学におられた彼に会いに行ったことや、1986年にクレタ島の国際シンポジウムでお会いしたこと、日本にも何度か来られたことなどが一度に思い浮かびました。ずっと彼を尊敬していました。
斎藤成也
東日本大災害の日の朝、まだ日本列島が大きく揺れていなかった時に、米国から、Walter M. Fitchさんが亡くなられたという連絡が届きました。Walter M. Fitchさんと根井正利さんがはじめた学術雑誌、Molecular Biology and Evolutionの第2代の編集長だったBarry Hallさんからのメールで知りました。その後、同日の夜、大震災が起こった後でしたが、現在Molecular Biology and Evolutionの編集長をしているMarcy Uyenoyamaさんからも、私たちAssociate Editorsに彼の死の連絡が届きました。昨年から、Walter M. Fitchさんの状態が思わしくないことは聞いていましたので、暗い気持ちにはなりましたが、受け入れました。その後は、大災害が起こって、そちらのほうに気をとられていました。
4月にはいり、私の研究室の人達に、現在準備を進めているSMBE2011 Kyoto Conferenceの状況を説明したときに、Walter M. Fitch Student Prizeに応募するように話しました。その時に、The Walter M. Fitch Awardのページをスライドで投影しました。そこに掲載されているFitchさんの笑顔を見たとたんに、嗚咽してしまいました。1984年に、ヒューストンから車で北上し,当時ウィスコンシン大学におられた彼に会いに行ったことや、1986年にクレタ島の国際シンポジウムでお会いしたこと、日本にも何度か来られたことなどが一度に思い浮かびました。ずっと彼を尊敬していました。
斎藤成也