Sayer Says in Japanese

Saturday, July 24, 2010

梅棹忠夫氏逝去

10年7月26日(日)

7月上旬、フランスのリヨンで分子進化学の国際会議に出席中にチェックしていた日本のニュースで、梅棹忠夫氏が亡くなられたことを知った。90才だったので、今年の1月に死去したJ. D. Salinger氏と同年である。昨年からメディカルバイオ誌に連載しているコラム"Sayer Says!"の3月号に、「師との関係」と題した内容を発表したが、「謦咳に接する」という部分で、梅棹さんのことに触れた。以下にその部分を引用する。

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 私は若いときから、民族学・人類学の巨人、梅棹忠夫さんとそのグループである近衛ロンドに興味を持ち続けてきた。彼や近衛ロンドグループの人々の著作の多くを読み、その活動の広さには尊敬の意を払ってきた。数年前に国立民族学博物館にうかがって、梅棹さんにインタビューをさせていただいたことがある。すでに自伝[6]を一度読んでいたが、インタビューに備えてもう一度読み返した。やはりおもしろかった。自伝のタイトルからして奇抜である。知り合いの一部には批判するむきもあったらしいが、自身の人生を客観的に眺めた結果としての題名であろう。
 インタビューにおいて私のもった最大の疑問点のひとつは、京都大学理学部動物学を卒業した梅棹さんが、どの時点から民族学や人類学に興味の中心を移行していったのかだった。この質問に対して彼は、「そうだなあ、張家口(中国河北省北西に位置する市)で遊牧を調べていたころかなあ」と答えてくれた。理科系から文科系に専門分野を転じることを「文転」と呼ぶが、梅棹氏はある意味で偉大な文転者である。人間に興味の中心を持つ医学分野でも文転する人々がいる。作家で言えば、最後まで医者であり続けたが、森鴎外がそうだろう。

[6] 梅棹忠夫『行為と妄想』中公文庫(2002)
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先日帰省した時に、わが書庫「懐無堂」に置いてある梅棹さんの単著・編著の本を数えたら、40冊ほどあった。彼は目を患われたあとに精力的に出版を開始し、一時は「月刊梅棹」という言い方もあったらしいので、私が持っているのは彼の著作の一部にすぎないが、それでもけっこう読んだのである。若い時に読んだ「東南アジア紀行」には、現地に現地に関係する書物を持っていって、移動中の車内でそれらの書を読破していったという記述がある。これはいいなと思い、実行に移している。1990年に初めて北京を訪れたときには、なかなか旅行許可がおりないのでホテルに待機しているあいだに、『紫禁城の黄昏』(ジョンストン著)を読んだ。もちろん紫禁城自体も訪問したが。昨年2月に1週間ほど滞在したインダス文明のファルマーナー遺跡では、夜寝る前に『ムガール帝国誌』(ベルニエ著)をざざ〜と読んだ。今ではあたりまえになったが、『知的生産の技術』に影響されて、自分の下宿でも段ボール製のファイルキャビネットを買い、ファイルの整理に使った。このように、梅棹さんには若いときからずいぶんと影響を受けたものだ。20世紀日本の知の巨人が、またひとり逝ってしまった。合掌。

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